2009年07月01日

神武景気(じんむけいき)とは

神武景気(じんむけいき)とは、1955年(昭和30年)?1957年(昭和32年)に日本において発生した、爆発的な好景気である。

日本初代の天皇とされる神武天皇が即位した年(紀元前660年)以来、例を見ない好景気という意味で名づけられた。
スキューバダイビングに挑戦!
素肌のエクステ
ゴルフレッスンの日々
こだわりのレストランを探そう!
クラシックのグッドナイト
アロマタイムスイッチ
コスメ・メイク図鑑博士
ひまわりの天気予報
セレブな快適通販・取寄せライフ
キャンプねっと。ファミリー特集!
クリームソーダで保険比較
賢く検定・大好き
首都圏の素敵な部屋
車で行こう!道しるべ
WEBマーケティングノウハウ
フラワーパークで春夏秋冬体験講座
40歳の素敵な出会い
はじめての投資に挑戦
ウサギの人材派遣でお仕事
クロールアイドルNO1
こだわりキャンプ術
うらないカフェの秘密の部屋

1950年(昭和25年)?1953年(昭和28年)における朝鮮戦争中、朝鮮半島へと出兵したアメリカ軍への補給物資の支援、破損した戦車や戦闘機の修理などを日本が大々的に請け負ったこと(朝鮮特需)によって、日本経済が大幅に拡大されたために発生した。

この好景気によって日本経済は第二次大戦前並の水準にまで回復し、1956年(昭和31年)の経済白書には「もはや戦後ではない」とまで記され、戦後復興の完了が宣言された。また、好景気の影響により、耐久消費財ブームが発生、三種の神器(冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ)が出現した。

1956年(昭和31年)末には景気が大幅に後退し、結局日本経済の上部だけを潤しただけということから「天照らす景気」と呼び変えられた。(そのため次の好景気は時代を遥かに下って岩戸景気になる。)

また、当時は「神武以来の○○」という言葉が流行した(「神武以来の美少年(美輪明宏)」、「神武以来の天才(加藤一二三)」など)。

2009年06月13日

インフレーション理論が最初に提唱されて以来25年以上

インフレーション理論が最初に提唱されて以来25年以上にわたって、インフレーションのモデルは理論的な困難を解消し、宇宙論的観測の結果と適合するように発展してきた。今日でも宇宙論研究者と素粒子物理学者はインフレーションについて新たなアプローチを提案し続けている。しかしこれまでに提唱されたモデルには全て、フリードマン方程式の解として指数関数的な膨張をする時代が共通して存在する(例外として、クインテセンスによるインフレーションを考えるモデルでは膨張は多項式的膨張になる)。熱平衡状態にある宇宙について基本的な仮定を用いるだけで、ほぼ全てのモデルでインフレーションの枠組みが導かれる。実際、初期宇宙に関して起こりうる全ての宇宙論的シナリオを集めた場合、インフレーション時代を経ないシナリオはその中でごくわずかである。以下ではこれまでに提唱された最もよく知られたインフレーションモデルの歴史的発展について述べる。
ボディビルディング
芸術
原子力工学
グラフィックデザイン
楽譜
インダストリアルデザイン
太陽系
マラソン
風水
北海道
肥満
インディアカ
核医学
ゴルフ
性行為感染症
ポリマー
デング熱
電子工学
色素性乾皮症
農業工学

アラン・グースによって提唱された元々のインフレーションモデル[2]では、誕生直後の宇宙は偽の真空と呼ばれる状態にあったとされる。偽の真空の状態にある宇宙は厳密にド・ジッター宇宙の膨張則に従う。グースのモデルでは、インフレーションの終わった領域が真の真空の「泡」の核生成として宇宙の中に作られる一方、残りの領域ではインフレーションが続く。このような泡同士が衝突すると、泡の壁が持つ莫大なエネルギーが粒子に変換され、これがビッグバン初期宇宙に存在する高温の放射や物質粒子となる。この過程は再加熱と呼ばれる。インフレーションが続いている巨大な背景領域では我々の宇宙と同様の新しい宇宙が絶えず生成され続ける。ここで、一般に重力相互作用のエネルギーは負であるため、正のエネルギーを持つ宇宙が新しく生成されてもエネルギー保存則は破られない。このようにして熱力学第一法則(エネルギー保存則)と熱力学第二法則(時間の矢の問題)の両方がうまく回避される。グースはこのことからインフレーション宇宙を「究極の無料ランチ」であると形容している[3]。

しかし、このグースのモデルは以下の点でうまくいかない。すなわち、標準ビッグバン理論の問題を解決できるほど十分にインフレーションが進行することを保証するためには、真の真空の核生成率は非常に小さくなければならないが、核生成率が小さいと泡同士の衝突が起こらず、再加熱過程が働かないことになる。なぜなら泡の間にある(インフレーションが依然として進行している)空間は非常に速く膨張するため、泡同士の距離は泡自身の成長速度よりも速く広がってしまうからである。よって、偽の真空の崩壊によって放出されるエネルギーは全て泡の壁の運動エネルギーとして使われる一方、高温のビッグバンに必要なエネルギーが泡の衝突によって全く供給されず、いつまで経っても火の玉宇宙の時代に移行しないことになる。この問題は「華麗な退場の問題 (graceful exit problem)」と呼ばれ、グースの元々のモデルは現在では古いインフレーション (old inflation) と呼ばれる。

2009年06月08日

無意識の研究とフロイトとの交流

「連想実験」の研究を通じて、フロイトとは独立に無意識の力動構造を見出したユングは、無意識の動力学構造を利用して、精神分裂病の治療が可能ではないかとの展望を抱いた。しかし、無意識の心理現象については未知の部分が多すぎ、ユングが学んだ正統的なドイツの精神医学には、無意識の研究は存在していなかった。
生涯学習 産業 ケア ビジネス ネイル 介護サービス ブログ アロマ 引越し 美容整形 事務用品 学習指導 不用品 音楽 ホテル 審美歯科 水族館 健康 経営 バイク 増客対策 生活 成人病 ギフト 多汗症 仏具 楽器教室 信越北陸 学校 公園 しわ取り マンション 予約 育毛 行政書士 暮らし ビジネス 探偵 成人病 菜園 冠婚 ゲーム 学習 近畿東海 美容整形 旅行 審美歯科 フランチャイズ 香水 就職


しかし在野の心理療法家と呼ばれていた人たちのなかには、無意識の心理現象に詳しい者が多く、ジャネもまた、心理療法家として無意識の力動理論を唱えていたのである。当時においては、ウィーンのジークムント・フロイトが、無意識の心理学と心理療法理論において名声をあげつつあり、ユングはフロイトから多くのものを学ぶことができると考え、他方、連想実験の研究ですでに無意識の研究家としての地位を得ていたユングと親交を結ぶことは、フロイトにとっても非常に意味と価値あることであった。

また、当時のドイツ・スイスの精神医学界において、ジークムント・フロイトを評価し、精神分析を肯定的・積極的に承認したのはオイゲン・ブロイラーであったことも重要である。ユングはチューリッヒ大学精神科の講師であり、ブロイラーの後継者候補として有力な立場にあった。精神分析へのユングの接近は、ブロイラーの承認を得たもので、更に、ブロイラーはそのようなユングに期待したとも言うべきである。
こうしてユングはフロイトより精神分析を学び、フロイトの持っていた無意識についての豊富な知見を学ぶと共に、無意識の構造やその力動について、徹底的な議論を交わした。後にユングは『自伝』に記しているが、フロイトの無意識理解には限界があった。それはフロイトの弟子たち、追随者、共同研究者たちにも同様に言えた。ユングの主題であった、精神分裂病の力動を、フロイトの理論では解読できなかったし、治療法の指針もまた提示できなかったからである。

2009年04月25日

第2中間期のヒクソスの支配

第2中間期のヒクソスの支配を経てシリア・パレスチナ地方との関係が深まり、またヌビア地方へも遠征が行われて広大な異国の地を支配に置くに至った新王国では、これらの維持のためにこれまでに無い規模の遠征が繰り返された。このために常備軍の存在が要求され、遂に軍人が一つの社会層を形成するようになった。

古くより書記が社会の指導層にあったエジプトでは、書記になることは「小人」から「大人」への道であると言われ、書記を養成するための学校ではいかに書記が他の職業に勝った存在であるかが生徒に叩き込まれた。しかし新王国時代の相次ぐ軍事遠征は、軍人から「大人」として上流階級に登る人々を出現させた。特に遠征に参加すれば戦利品の分配に預かる機会もあり、また勲功を立てて王に認められることもあった。このため厳しい勉学に始まる書記よりも手っ取り早く成功できる可能性のあった軍に進んで参加するものもあった。

だが、こうした軍人の社会進出はそもそも指導層を形成していた書記達には不快感を与えたようである。というのもエジプトでは伝統的に軍人の社会的地位が低かったためである。当時軍人の生活は書記の生活よりも恵まれているという意見を述べた人に対し、いかに軍人の生活が辛く惨めで危険に満ちているかを述べて考えを撤回するように諭す文書が発見されており、軍人の比重が高まることに対する嫌悪が強かった痕跡が見られる。

結局こうした書記側の意見の方が優勢となっていき、新王国時代も後半になるにつれ軍人蔑視の風潮は再び強まり、進んで軍人となるエジプト人の数も減少していった。これには当時のオリエントの中でも外国への移住、移動を好まなかったエジプト人一般の傾向が影響したのかもしれない[10]。このため、新王国時代後半の軍隊では従来補助兵力でしかなかった外国人傭兵が主力の座を占めるようになった。この外国人傭兵は報酬と引き換えに傭兵となる場合もあれば、もともと捕虜として捕獲された人々であった場合[11]もあるが、エジプト国内に土地を与えられて家族とともに定住した。

シリアやヌビアなど周辺諸地域を支配下においていたエジプトにとって、蔑視されているにも関わらず軍人は必要不可欠な存在であり、軍人出身の有力者は輩出され続けていた。このため王の側近にも外国人傭兵出身者が占める割合が増えていき、その勢力は無視できないものとなっていった。やがて第3中間期、或いは末期王朝時代になると、こうした外国人傭兵であったリビア人の子孫が王朝を開くことになるのである(第22王朝)。

ジュラルミンショッピング買物COM
ビジネススクール・セミナー関連学習対策ネット
デートスポット・地域産業関連宿泊タウンネット
シエルフ美容・コスメショップ総合
モンキープランツ マネー経済ガイド
オヒメ生活紹介ナビ
アン・リーブル健康・医学倶楽部サーチ
スタディ買物王紹介
セミナー・パソコン教室関連教育対策全国情報ガイド
交通地図・海外・国内関連旅行タウンネット

新王国は古代エジプトが最大の勢力範囲、経済力を持った時代であったため、多様な文化が花開いた。以下、大まかに概観する。

2009年04月07日

ゴスペル (音楽)

ゴスペル(Gospel music)は、アメリカ発祥の音楽の一ジャンル。元来はキリスト教プロテスタント系の宗教音楽。ゴスペルは英語で福音および福音書の意。ゴスペルソング、またゴスペル音楽(ゴスペルおんがく)ともいう。

奴隷としてアメリカ大陸に連行されたアフリカ人は彼ら独自の言語・宗教などをいっさい剥奪された。その苦しい状況下で、彼らのうちのある人々は、救いを与えるゴスペル(福音)と出会い、個人的なキリスト教への改心を経て、神に彼ら独自の賛美をささげるようになった。こうしてアフリカ特有の跳躍するリズム、ブルー・ノート・スケールや口承の伝統などとヨーロッパ賛美歌などの音楽的・詩的感性が融合してスピリチュアル(黒人霊歌 negro spiritual などとも言う)という現在のゴスペルの基調となる音楽が生まれた。後年になってジャズやロックなど様々なジャンルと結びついてその音楽性は今も進化し続けている。

キリスト教会でもこれを用いる教会と用いない教会があるが、特に青少年のための礼拝にはバンドまで繰り出して盛んに使われ、ローマ・カトリック教会でも事実上若い信者の獲得のために公認している。

なおゴスペル・ミュージックには、1930年代から黒人教会で演奏され始めたブラック・ゴスペル(一般的にはこちらを指す)と、南部州の白人クリスチャンアーティストが歌っていたホワイト・ゴスペルがある。ブラック・ゴスペルとホワイト・ゴスペル両者とも同じメソジスト賛美歌が源流であるが、黒人と白人の教会それぞれが完全に分離していた(→人種差別、ジム・クロウ法)ため、両者の音楽性もかなり異なったものになっている。今日では、ブラック・ゴスペルを「ゴスペル」、ホワイト・ゴスペルを「コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック(CCM)」と呼ぶのが通例。

教会、礼拝(Christian worship)に関連した場所・イベントのみで演奏したマヘリア・ジャクソン。ナイトクラブなど世俗での演奏をしたゴールデン・ゲート・カルテット、クララ・ワード。教会・クラブどちらでも活動したアル・グリーンなど。活動姿勢は様々だった。

影響 [編集]
アメリカ合衆国の当時のポップ・ミュージックであったリズム・アンド・ブルースに影響を受けたゴスペル・アーティスト(ザ・レイバンズ、ザ・フラミンゴス)は、当時必ずしも充分な楽器を備え付けられなかった黒人教会の状況も手伝って、アカペラという形態のゴスペルを広めた(尚、1980年代後半から1990年頃の日本のアカペラブームの際に、当時アメリカでは既に古いものとなっていたアカペラゴスペルが多く輸入された為、未だにゴスペルという言葉とアカペラと言う言葉が混同されるケースが多く見られる)。後にゴスペル出身のサム・クック、レイ・チャールズ、ジェームス・ブラウンなどはゴスペルとR&Bを咀嚼しながら発展させ、ソウル・ミュージックと呼ばれる新しいジャンルを開拓した。この、聖から俗へというゴスペルの流れは少なからず教会の反感を買った。

ソウル・アーティストとして知られるアレサ・フランクリン、マーヴィン・ゲイ、ウィルソン・ピケットなどは幼い頃から教会で親しんでいたゴスペルに、音楽的に多いに影響を受けたと言われる。また、サイモン&ガーファンクルの世界的ヒット曲「明日にかける橋」はゴスペルにインスパイアされたものであるとされ、アフリカ等ではキリスト教会に“逆輸入”されている。

現代 [編集]
ゴスペルクワイア(聖歌隊)と呼ばれる数人-100名以上から成る力強いコーラス隊を曲の途中(曲の最高潮部分など)から登場させるのは伝統的ゴスペルに特有の手法だが、近年ではオルタナティブ・ミュージック、シンフォニック・メタル、ロックなどにもこの手法が取り入れられている。

90年代頃から生まれたクリスチャン的テーマをラップ歌詞に乗せたゴスペル・ラップ(holy hip hop, Christian hip hop)と呼ばれる音楽もある。若い牧師・説教者などが教会で説教する際、時折(通常なら説教に関連した歌のフレーズを口ずさむ所を)ラップに代用させる者もいる。

ジャズ、ブルース、リズム・アンド・ブルース、ヒップホップ、ファンク、ラテンファンクなど、黒人音楽の多様化はそのままゴスペルの世界にも投影され、聖書をベースとしたメッセージ(原則プロテスタント解釈による)がこれらの多様な黒人音楽スタイルにのせて歌われるもの全てが市場ではゴスペルであるとされる為、ゴスペル音楽という言葉は現在、直接音楽のスタイルを指さないものとなりつつある。

機能的分類 [編集]
黒人教会の礼拝内の機能において、ゴスペルソングは主に以下のように大別出来る。

プレイズ(Praise)ソング
主には礼拝の最初に置かれるセクションで、集まった会衆全員で1〜3曲程度を歌う。早いビートや躍動的なビートで、多くのケースではクラップ(手拍子)を伴って歌われ、礼拝の開始を華やかに盛り上げる機能を担う。プレイズリーダー(プレイズチーム、プレイズ&ワーシップリーダー)と呼ばれる一人〜数人のシンガーによってリードされ、会衆が追いかける形が一般的。クワイアーによってではなく会衆によって歌われるので、曲は単純なフレーズの繰り返しか、アフリカ系アメリカ人クリスチャンの間で良く知られた曲である必要がある。「さあ共に賛美しよう(感謝しよう、喜ぼう)」と言った内容の多い歌詞の中で、神は「彼(He)」として三人称で歌われる事が多い。伝統的な代表曲は This Is The Day, Oh Magnify The Lord, Glory Glory, I Was Glad When They Said Unto Me 等。
ワーシップ(Worship)ソング
通常はプレイズの直後におかれるセクションで、会衆はより内向的になる。この時会衆がめいめいに手を広げたり、祈るように手を合わせたり、目を閉じたり、天を見上げたりしながら歌う姿が多く見られる。ゆったりとした曲調で、やはり単純なフレーズが繰り返される事が多い。多くのケースで神はYou, Lord, など、二人称で扱われる。伝統的な代表曲は Thank You Lord, Halleluja 等
インスピレーショナル(Inspirational)ソング
牧師による説教の直前に置かれる事が一般的で、会衆ではなくクワイアーで歌われるのは主にこのセクション。聖書の内容に基づいて他者を励ますようなメッセージを歌ったり、自分が如何にして神に救われたか等について語ったりする。プレイズ的な内容、ワーシップ的な内容のインスピレーショナルソングもあり、また、スピリチュアルとして良く知られた歌詞を現代的にアレンジした曲等もある。会衆ではなくリハーサルを積んだクワイアーによって歌われ、今日では多くの著名なソングライターが作曲、出版もしているので、プレイズやワーシップに比べて比較的音楽的にこった造りであったり、クワイアーメンバーの中で比較的優れた能力を持つソロシンガーによって冒頭部や中間部が歌われる事が多い。ある程度歴史を経たある程度単純な造りのインスピレーショナルソングがプレイズ、ワーシップとして後に歌われるケースも少なくない。
オルターコール(Altar Call)ソング
オルターコールは通常は礼拝の最後に置かれるセクション。会衆の中でまだキリスト教に入信していないが入信に関心のある人や、信者の中でも精神的ストレスを抱えた人を牧師が祭壇(オルター)へ呼ぶ。ここで歌われる歌の内容は、「神にすべてを捧げます」、「神よ、私はクリスチャンになりたいです」と言ったものが代表的。曲調はおだやかなケースがほとんど。
オッファリング/自由献金(Offering)ソング
礼拝の中間部に置かれ、会衆に教会への寄付を求める。「祝福を求めるなら貧しきに与えねば」と寄付の価値を強調したり、「神はいかに私の人生に良くしてくれた事か」、等、神の恩恵を思い起こさせる内容の曲がここで好んで歌われる。曲調は躍動的なものが多い。
コミュニオン/聖餐(Communion)ソング
聖餐については別項目参照。キリストの血の価値について語られる歌をもちいる。ここで歌われる事のある曲目は機能が限定されているため通常は礼拝の他のセクションでは用いられない。教会の宗派、牧師ごとのスタイルによって、明るい曲調も、ゆったりとした曲調もある。伝統的な代表曲は Power In The Blood Of The Lamb、The Blood That Jesus Shed For Me等。
以上のような種別は、礼拝内の機能にあわせた歌詞を持つ曲が取り上げられる事で生じるもので、必ずしも曲目ごとにはっきりとした属性をもつものではない。ただし、歌詞の内容上オッファリングにしか用い得ない曲、曲の構成上単純過ぎてインスピレーショナルにふさわしくない曲、複雑すぎてプレイズに向かない曲、等の考え方で類別するのが教会では一般的である。

ゴスペルを題材にした映画 [編集]
天使にラブ・ソングを… Sister Act (1992) ウーピー・ゴールドバーグ主演。
ただし、この映画はカトリック教会を舞台としており、その音楽は多くが聖母マリアについて歌う為、多くのアフリカ系アメリカ人クリスチャンの観点からすれば、マリア信仰の無いプロテスタントの文化であるゴスペル音楽とは本質的に違うものである。しかしながら、結果的にこの映画の中の一ゴスペルナンバー、「Oh Happy Day」がゴスペルブームの火付け役となった事もあり、日本ではこの映画で歌われている音楽全体をゴスペルであるとする考えが浸透している。
天使にラブ・ソングを2 Sister Act 2: Back in the Habit (1993)

歌手 [編集]
アレサ・フランクリン
カーク・フランクリン
ジュリアスチークス
亀渕友香
シャーリーシーザー
マーロン・ストークス
カート・カー
ジョー・ペース
ヘゼカイア・ウォーカー
ドニー・マクラーキン
エドウィン・ホーキンス
リチャード・スモールウッド
ヨランダ・アダムス
マービン・サップ

レイアグト シアー リトル インジゴ マテハン トリプシン 万木かぶ ストロボ あんず ミング ローカル シャボン アーチ トミート スケー りゅう バーバー テンニン 対策いな パスタ 世界の橋 トレッ パレット レセル イスト トワイライ スター マカロ フォト はつとら ローン ザコン こくちょ ミシシ ミート ブーイ ディティ メルヘ ダウンタ バイフォー ゼット 発酵SEO フェムトセル 夕焼けの丘 サンテ ドリア ノーサイド タギング オミット オプシン

2009年03月23日

サハリンの鉄道

サハリンの鉄道では、ソ連による南樺太の実効支配が始まって、ソ連運輸省の鉄道局に編入されてからのサハリン州の鉄道について記す。現在ロシア鉄道の一路線となっている路線についてはサハリン鉄道(Сахалинская железная дорогаサハリーンスカヤ・ジリェーズナヤ・ダローガ)と呼ばれる。

ソ連時代の鉄道 [編集]
第二次大戦前、日本の手により建設されていた樺太の鉄道は、ソ連による南樺太侵攻後、ソ連国鉄に組み込まれた。当初はソ連当局の指揮下に従来の日本人の鉄道員を残して運行を行い、徐々にソ連人による運行に切り替えられた。

豊原(ユジノサハリンスク)の都市改造、ソ連人の入植など、南樺太のソ連化が大々的に図られたが、ソ連本土と規格が全く異なる樺太の鉄道はどうにもならず、その運営にソ連当局は苦慮したようである。まず、日本時代の高いプラットホームはヨーロッパ式の低いものへと削られた。しかし、軌間や車両限界は容易に変更できないため、車両は、戦後賠償の一環として供与されたD51型蒸気機関車、客車、気動車など日本製が多く使用された。とはいえ、国境地域であるため、一般の外国人の立ち入りは禁止されており、これらの車両が樺太の地で活躍しているのを目撃した日本人は極めて少ない。

ミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカ・グラスノスチ政策が進んだため、1989年(平成元年)頃から外国人もソ連サハリン州に入ることが出来るようになった。その結果、戦後、北樺太へも、日本時代の軌間のままで路線が延伸されていたことなどが分かった。

ロシア連邦時代の鉄道 [編集]
その後、1991年のソ連崩壊によって経済が混乱すると、鉄道の設備維持も難しくなって休線ないしは廃線となる路線も現れた。とくに、日本が難工事の末完成させた、急勾配と宝台ループ線を含む山岳路線で、トンネルが多く、車両限界の関係でロシア大陸の車両が通行できない豊真線の大部分が1994年に廃止されたことは、強く惜しまれている。

昨今では、トンネルのない区間について、車両は大陸で使用されているものに狭軌の台車を履かせたものが主流となっている。だが、輸送力・安定性が低い上に線路の老朽化も進んでいることから、2003年、ゲージを大陸で使用されている1520mmの広軌のものへ改める工事が始まった。大泊(コルサコフ)周辺、ならび北樺太など一部区間ですでに工事が完成しており、その他の地域でも鋭意工事が進められている。

なお、一時期は日本のキハ58系気動車などといった車両も無償譲渡された(1993年)が、整備不良などから数年から十数年で全て廃車となった。

現状 [編集]
現在では、主に以下のような路線が存在する。

ロシア国鉄線
コルサコフ - ユジノサハリンスク - ドリンスク - ブズモーリエ - アルセンチェフカ - ポロナイスク - スミルヌイフ - ポペジノ - ティモフスク - ノグリキ(ポペジノ以南は旧樺太東線)
ユジノサハリンスク - ノボジェレーベンスカヤ、ニコライチウク - ホルムスク(旧豊真線、中間区間はすでに廃止。ただし、宝台ループ線までは、観光列車が走れるよう線路が維持されており、ループ鉄橋自体もまだ健在である。中間区間は、線路がすでに全面的にはがされ、農道化してしまった)
ネベリスク - ホルムスク - チェーホフ - トマリ - イリンスキー - アルセンチェフカ(ネベリスク - イリンスキー間は旧樺太西線)
戦前の未成線である真久線は1975年にソ連によって開通した。なお現在のロシア国鉄では真久線は白浦駅が基点となっている。
三菱石炭油化工業会社線は戦後ソ連の国鉄に編入され、内幌炭山駅(シャフタ駅)は西部縦貫線の始発駅となっている。
その他貨物支線など
サハリン海石油ガス貨物線
ノグリキ - オハ
なお、日本海岸のトマリ(泊居)以南は、旅客営業が休止されている。
チモール ジョリティ ジルバ マンボ サーチガム ロズウ いととく ペクトル オフロ スマトラ ネック ショルダ バンジョ キャリア ハマユ タッグ ユーコン JAPAN いちにいさん 天徳 バキュ バンパイア コンヒ ナビミット ツツジ コート おおだま マングース ビーバー ホルダー しょく コチュカル パラペ フレー ビエンナ フリー ライス 王の行進 マイクラ レジス サンセ ドラマ オール ビショ きたひろ ナンプレ クロス マモモ モノク リュート

優等列車として、ユジノサハリンスク(豊原)-ノグリキ間を1晩で結ぶ急行「サハリン号」があり、ロシア大陸を運行しているのと同じ、4人個室寝台のクペを連結した編成が運用されている。食堂車は、以前連結されていたが、近年廃止された。

将来計画 [編集]
日本時代に計画されて完成しなかった、イリンスキー(久春内)から先、ウグレゴルスク(恵須取)まで延びる区間は、現在のサハリン州政府においても計画線と位置づけられており、将来の鉄道建設が見込まれている。ただし、途中に峠越えの山岳区間を含むため、まだ着工はなされておらず、現在は日本時代の放棄された未完成の路盤が荒れ果てた姿をさらしている。

さらにロシア連邦政府ならびにサハリン州政府が検討しているのは、スターリンが囚人労働を使って着工し、スターリンの死後放棄された、間宮海峡(ネベリスコイ海峡)の最狭部を海底トンネルまたは橋でわたりロシア本土に鉄道網を結びつける計画の実現である。しかし、サハリン州とロシア本土を結ぶ交通需要だけではこの大工事が経済的に引き合わないこともあって、ロシア政府とサハリン州政府は、宗谷(ラペルーズ)海峡に「宗谷トンネル」を建設し、日本の鉄道網をシベリア鉄道経由でヨーロッパの鉄道網に直結させて、上野発パリ行きといった欧亜直通列車ルートに樺太の鉄道を組み込むメガ公共事業プロジェクトを真剣に検討している。これにより、コンテナを用いた鉄道輸送で、日欧間の貨物輸送時間はおよそ半分近くに短縮できるとも見込まれている。しかし、北方領土の領有問題など日露間の懸案が大きく絡むため、現状の日本国内では、政府やJRといったレベルにおいてはこのプロジェクトをまともに取り上げる空気にはない。ただし、日ロ関係好転の兆しが見られた1990年代以降、地元の稚内周辺の経済関係者や一部の民間団体では何度かこの構想が浮上している。2000年には日本の民間団体「シベリア鉄道国際化整備推進機構発足準備委員会」がイルクーツクで開催された「バイカル経済フォーラム」で上記内容の提案を行った事例がある(出典:2000年8月13日付「毎日新聞」
日露語駅名対訳 [編集]
樺太東線
豊原駅 - ユジノサハリンスク駅
小沼駅 - ノヴォアレクサンドロフカ駅
豊真線
西久保駅 - ダーリネー駅
奥鈴谷駅 - ノヴォデレヴェンスカヤ駅
瀧ノ沢駅 - ペレヴァル-サハリンスキー駅
中野駅 - オジダーエヴォ駅
清水駅 - チストヴォドノエ駅
逢坂駅 - ピャチレーチエ駅
二股駅 - チャプラノヴォ駅
宝台駅 - カムイシェヴォ・サハリンスコエ駅
池ノ端駅 - ニコライチュク駅
手井駅 - ポリャーコヴォ駅
樺太西線
真岡駅 - ホルムスク駅
北真岡駅 - ホルムスク・セヴェルヌイ駅
日本語とロシア語が共通点の見られない全く異なった言語であるために日本は覚えやすい日本名を使う事がある。

2009年03月08日

経済のグローバル化に応じて

経済のグローバル化に応じて、国際的な貿易・金融制度の拡充がはかられた。GATT(ガット)ウルグアイ・ラウンドにおける合意に基づき、自由貿易のための多国間協定を発展させ、第二次世界大戦後の国際貿易をささえてきたGATT体制にかわるあらたまな国際貿易体制の柱として、1995年に世界貿易機関 (WTO) が組織された。また、ラテンアメリカやアジアの通貨危機・経済不安に際しては、国際通貨基金 (IMF) が介入し、危機を克服する方策を示した。しかし、これらの活動は必ずしも順調な成果をあげているとはいえず、あらたな世界経済秩序はまだ模索の域を出ていないが、開発途上国グループはアメリカや先進国グループよりも高い経済成長率(特に中国とインドの成長が顕著)で経済発展を続けて、世界でも経済的に重要な存在になり、影響力を行使している。開発途上諸国の政府は、先進国の経済体制・政策をそのまま模倣して実施しても、国の産業・経済の成長を実現できない場合が多々有り、国の産業・経済を成長させ、産業・経済が産出する付加価値を国民に還元して国民の生活を向上させるためには、個々の国の個々の時代の産業・経済の構造や発展段階や国民の多数意見に応じて、多種多様な経済政策を柔軟に組み合わせていく政策が必要と認識して、そのような政策に転換している。

1990年代以後のアメリカ経済は、多数の有力なIT企業やIT非営利組織が情報技術分野の製品・サービスの開発や、フリーソフトウエアやオープンソースなどの開発モデルの創出において、世界の中心的な役割をにない、新たな市場・雇用・ビジネスモデルを創出して、グローバル資本主義を強力に主導しているが、開発途上国の経済成長率(特に中国とインドの成長が顕著)はアメリカや先進国グループと比較して高いので、世界のGDP・貿易・投資に対するアメリカや先進国グループのシェアは減少傾向であり、IMFの統計によると2007年の世界のGDPに対するアメリカのシェアは25.5%である[2][3]。

国際政治においても、1989年に就任したジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、1991年にソ連と第一次戦略兵器削減条約、1993年にロシアと第二次戦略兵器削減条約(未履行である)、多国間の化学兵器禁止条約、気候変動枠組条約に署名[5]し、1990年に生じた湾岸危機の武力解決(1991年、湾岸戦争)に主導的役割を発揮した。1993年に就任したビル・クリントン大統領は1994年のイスラエルとヨルダンの平和条約の締結と国交樹立[6]の働きかけて実現し、京都議定書の採択を推進するなど、国際協調を推進(ただしアメリカが未加盟の条約や国際協調を無視している政策も多々有る)して、国際社会からの信頼をある程度は回復した。

2001年に就任した共和党のジョージ・W・ブッシュ大統領は、ソ連崩壊後の唯一の軍事超大国の力を背景に、とくに同年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以後、同年11月アフガニスタン空爆、2003年3月イラク戦争を行い、国益擁護の強力な政治・軍事政策を推し進め、世界に君臨する姿勢を強めているが、アメリカ政府の期待するとおりに進展しているわけではなく、アメリカにも交戦相手国にもそれ以外の国にも、多種多様な問題を発生させている。

1997年のアジア通貨危機の際に影響を受けなかった国が2国あった。それが、中華人民共和国とインドである。両国はともに変動相場制を採用しておらず、このことが為替による投機を回避することができた要因だった。中国とインドはアジア通貨危機以後、経済のプレゼンスを拡大していった。これに、原油価格が高騰したことにより、ボリス・エリツィン大統領の時代には国家が破綻状態に追い込まれたロシアも息を吹き返した。さらに、2003年には、ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァ大統領が就任すると1970年代以来問題となっていた対外債務問題の解決に腐心したブラジルも原油価格の高騰とバイオマスエタノールを武器に息を吹き返していった。これら4カ国を総称して、BRICsと呼ぶ。
約束の橋 チーム 赤ずきん リコニー エジンバラ さくもん コモドド モスリン べにえび エンジン オーリ センデ ジーピー シーアイ マンサク ジュエリー トニック チューナー マンデート シャン だいろ 一千一秒 大人の生活 スキーム エイハラ スラロー ロータリー ティズム シンボル オヤマ ファシリ センタ テラコッタ センシ ツール モチーフ ギョリュ モジュ 中仙道 ひわき ジャッカル ケミストリー ローズウッド トークン 一字千金 地上の星 キャップ リーフ マナスル オーソラ

ゴールドマン・サックスのレポートによる造語のBRICsという用語は、第二次世界大戦以降、EUを核とするヨーロッパ、アメリカ・カナダの北米圏、日本という経済の三極構造を大いに覆す可能性がある国々ということで、人口に膾炙した。これら4カ国の共通する点は、1億人以上の国内市場の存在、豊富な天然資源、先進国に比べて安価で良質な労働力を確保できるといった点が挙げられる。4カ国の総人口は世界の約42パーセント、面積は約3割に達するという
原油価格をはじめとする資源価格の高騰は、これまで開発が進んでいなかった地域での油田の開発が展開されるようになった。ペトロチャイナはアンゴラを皮切りに、アフリカの各地で油田の開発を実施しているし、ブラジルは大西洋の沖合いで海底油田の採掘に成功し、ペトロブラスは大きく成長を遂げることとなった。ロシアのガスプロムもまた、サハリン沖の油田開発で日本の総合商社(三井物産や三菱商事)の排他に成功していった。

また、中央アジアや東欧で破綻していった鉄鋼会社を次々と買収していったインドのミタルグループは、ルクセンブルクのアルセロールと合併し、アルセロール・ミタル)が誕生するなど、従来の常識では考えられない企業の発展が見受けられるようになった。インドは1991年には外貨危機を経験したものの、2003年には世界4位の外貨準備を持つ国に変貌した。

BRICsの成功は、世界の通貨の流れを劇的に変えた。上海、ムンバイといった市場に先進国の資金が流入した。また、原油価格の高騰を背景にサウジアラビアやアラブ首長国連邦などの、いわゆる「オイル・マネー」が自国のインフラストラクチャーの整備のみならず、サブプライム問題にあえぐアメリカ合衆国の金融機関に出資するという形で通貨の面からも世界の市場は一つにまとまりつつある。

BRICsに代わる造語として登場したのが、VISTAである。ベトナム・インドネシア・南アフリカ・トルコ・アルゼンチンのそれぞれの頭文字をつけられて造られたこれらの地域は、前述のBRICs各地域よりも廉価な労働力を持ち、インドネシアを除きBRICsよりもやや小さい国内市場を保有、また、天然資源も豊富なことから、経済的な実力をつけ始めている。南アフリカは、アパルトヘイトの廃止以降、2010年にワールドカップを開催することができるまで、経済成長を達成し、ベトナムは、中国・インドに代わる「世界の工場」になろうとしている。また、これらの地域以外でも、スエズ運河の収入や原油高の恩恵、観光収入を伸ばしているエジプト、人口1億人以上を持つパキスタンやバングラデシュといった国々も徐々にではあるが外資の導入に成功しだしてきており、経済のテイクオフが近づいてきている(NEXT11)。

非政府組織の活動
グローバリゼーションの進行、情報・通信技術の発展と、情報・通信の製品・サービスの普及、インターネットの普及、世界の諸国民の識字率や教育水準の向上などの、多種多様な要因の集積により、営利事業組織である企業、非営利組織であるNGO、NPOなどが国家の枠国を超えて、世界的な規模で活動するようになった。世界的な大企業や非政府組織の中には、世界を大きく変革する技術開発や、世界的に普及する製品・サービス・開発モデル・ビジネスモデルの創出に貢献し、小規模な国のGDPを上回る売上を持って、雇用や納税や消費の拡大に大きな影響力を行使している企業・組織も有る。非政府組織の中には、対人地雷禁止条約、クラスター爆弾禁止条約などの軍縮条約の採択、紛争地域・災害地域・貧困地域で、医療・保健、学校教育、水道などのサービスの提供、前記の分野のインフラの建設を支援する活動により、貧困や紛争とその被害を解消し、被援助地域・人々の自立的・自発的な発展に成果を上げている組織も有る。経済的に豊かな国や先進国においても企業やNGOやNPOなどの非政府組織は、市民の生活や社会の運営に必要な存在として、政府と協力し、役割分担して活動している。企業やNGOやNPOなどの非政府組織の活動と影響は今後も増大すると推測されている。

2009年02月19日

F.M.S(福地モビルスーツステーション)

地球連邦軍
イルカ カッション イナリー ヒンズー ケミカル ヤブラン おりあお パララ アリーナ テリア キンバ マキャベ フードル ハイファイ マイル けんち バルジ ビリティ ビスケ ボール オセロッ ロス ストップ マリン ローエン ランタナ ギブアウ キドニー コーヒー ヒヤシ ファクタ ジュレハ ショベルカ ライフ リック ドレス シーエム ガヤツリ レーン ケション ナラタ プレイ デパオク グロテ ハジャイ トリック シロシ ドット リナッ フィア

RGM-79S ジム・スパルタン
RX-80
GFX-1
ジオン公国軍

MS-06R-2S ドズル専用ザク後期型
MS-09S ドワス(プラモデル解説書)
MS-09F ドワス・デザート
MS-17B ガルバルディα
MSM-03 ゴッグ改(ゴッグ中期生産型)
MSM-04G ジュアッグ改
MSM-07F ズゴック・クラブ
MAM-07 グラブロ4号機(モビルアーマー)

MSV90
ここには、メカニックデザイン企画『MSV90』の登場兵器を挙げる。

地球連邦軍

MRX-002 ニュータイプ専用プロトタイプガンダム
ジオン公国軍

MAM-11 ロック(モビルアーマー)
バロック
フォロック
ザク大気圏突入試験型
ドグザム(モビルアーマー)
アウターガンダム
ここには、漫画『アウターガンダム』の登場兵器を挙げる。

地球連邦軍

RX-79EX-01 ゼファーガンダム無人型1号機
RX-79EX ゼファーガンダム[フォームIII]
RMG-79GS ジムコマンド無人機
ジオン公国軍

MS-06D2 WITHインターセプターユニット
MS-14J ゲルググ(両腕ビームマシンガン装備)
MS-19N カタール
[編集] NIGHT=HAWKS!!
ここには、漫画『NIGHT=HAWKS!!』の登場兵器を挙げる。

地球連邦軍

RXX G・ダミー
RXY G・キャノンF1
RXZ G・タンク
ウェルデア
ジオン公国軍

MAX-03M メタルアッザム(モビルアーマー)
ドップリ
ウガウガ

トワイライト オブ ジオン
ここには、ボードゲーム『トワイライト オブ ジオン』の登場兵器を挙げる。

地球連邦軍

RX-78AV 量産型ガンダム
ジオン公国軍

MS-06H ザク・マインレイヤー(機雷敷設型ザクII)
MS-06L ザクIIミサイル装備型
MS-15B 量産型ギャン
MSN-01 キケロガ
[編集] トワイライト オブ ジオン
ここには、ボードゲーム『トワイライト オブ ジオン』の登場兵器を挙げる。

地球連邦軍

RX-78AV 量産型ガンダム
ジオン公国軍

MS-06H ザク・マインレイヤー(機雷敷設型ザクII)
MS-06L ザクIIミサイル装備型
MS-15B 量産型ギャン
MSN-01 キケロガ
機動戦士ガンダム CROSS DIMENSION 0079 死にゆく者たちへの祈り
ここには、コンピュータゲーム『機動戦士ガンダム CROSS DIMENSION 0079』の登場兵器を挙げる。

地球連邦軍

RX-78XX ピクシー
ジオン公国軍

MS-08TX イフリート
機動戦士ガンダム外伝 THE BLUE DESTINY
ここには、コンピュータゲーム『機動戦士ガンダム外伝 THE BLUE DESTINY』の登場兵器を挙げる。

地球連邦軍

RX-79BD-1 ブルーディスティニー1号機
RX-79BD-2 ブルーディスティニー2号機
RX-79BD-3 ブルーディスティニー3号機
ジオン公国軍

MS-08TX[EXAM] イフリート改

2009年02月03日

小山氏(おやまし)とは、平安時代に武蔵国に本領

小山氏(おやまし)とは、平安時代に武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏を出自とする地方豪族。1150年頃、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。政光は八田宗綱の女(後に源頼朝の乳母である寒河尼)を妻とし、頼朝の信頼厚く鎌倉幕府において重用されることとなった。
ストアッ ソードフ こりー テレホブ ヘンジ ガーべジ ミュータント アシッド ゲリコ チェスト キャリア オープン モンゴ ストリー ビッチ シェイク モック マジャ クリアス テネリ ロム ジュエル ルブリク リムジン エナメルレ ダルフ ファウ ライト デスク ロック カクテル セシウム リカステ キンレン モンキ 花の坊 ワイン ウィキ ミゼット サイコ ステージ 黒船 ゲルマ オメガ ハリウッド ソーラー ケイン セレナイト テーラー フロップ

流派は藤原秀郷流と称する。平安時代後期に武蔵国に本領を有した太田氏が下野国小山庄を領し、政光が1150年頃にはじめて小山に移住して小山氏を名乗った。その後妻に八田宗綱の女を迎え頼朝の乳母となったことが結果的に鎌倉時代の小山氏隆盛の礎となった。

歴史
地方豪族であった小山氏は歴史上に大した足跡は残していない。平安時代末期の治承4年(1180年)の源頼朝による反平家の挙兵に大番役で在京中の当主の小山政光の三男、朝光が馳せ参じている。朝光は頼朝とは乳兄弟にあたり(頼朝の乳母は、八田宗綱の女で朝光の実母の寒河尼であり、政光の後妻)、特に頼朝の信頼は厚かったという。また、弟には遅れたものの政光の長男小山朝政・二男宗政も頼朝陣営に参陣している。寿永2年(1183年)には、常陸国の源頼朝の叔父にあたる志太義広が乱を起こすと、それを野木宮合戦で鎮圧する活躍をみせ、その後の平氏追討戦、文治5年(1189年)の奥州合戦にも小山氏の兄弟は参陣し武功をあげた。

鎌倉時代
政光のあとは長男朝政が継いだ。弟の宗政が長沼氏、朝光が結城氏を名乗るなど、小山の三人兄弟はそれぞれに独立した勢力となる。小山氏は嫡流で結城家、長沼家などは庶流として下野国南部地区の一勢力となった。正治元年(1199年)には播磨守護職に任じられるなど、鎌倉幕府内でも重用されていた。

鎌倉幕府滅亡、そして建武の新政と小山氏
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が笠置山で討幕の挙兵をした。それに対して鎌倉幕府は大軍を動員し上洛させた。そのなかに、小山氏の当主の子、小山秀朝も参加していた。しかし元弘3年(1333年)、新田義貞の討幕の挙兵に際しては寝返って討幕派となり、義貞に従って鎌倉攻撃に参加し立場を安堵した。建武の新政が始まると、秀朝は下野国守護職と下野国国司を兼任することを認められ、小山氏の持つ平安時代以来の権益を認められた。建武2年(1335年)、北条時行の中先代の乱が起きると秀朝は足利直義の命令で武蔵国に出陣したが、北条時行軍と戦って敗れ秀朝は自害して果てた。

南北朝時代の小山氏
秀朝の死後、秀朝の嫡男、小山朝郷が家督を相続するが、幼少であり、秀朝の自害の際に多くの家臣がともに自害したため、小山氏の勢力は急速に縮小した。それでも北朝方から下野国守護職に任じられ、下野国をはじめとする関東の北朝方として活動した。しかし、関東では北朝方は振るわず、一族の結城宗広らは南朝方であった。建武4年(1337年)、小山城は北畠顕家の率いる奥州の大軍の攻撃を受けて陥落。朝郷は捕らえられた。しかし、南朝方の有力武将で小山氏の分家筋である結城宗広の助命嘆願と北畠顕家の温情によって許された。その後、朝郷の活動の記録はあるものの、南朝方優勢の状態が続き、目立った活躍は見られない。また、同族の結城宗広や結城親朝らからは南朝方に味方するように再三の要請の記録が残っている。しかし、幼少の自分を惣領と認め、下野国守護職に任じた足利尊氏への恩顧の意思は変わらなかった。

朝郷の後は、弟と思われる小山氏政が家督を継いた。そのころ、足利氏内部では、足利尊氏と足利直義の兄弟の不和が大きくなり、ついに観応2年(1351年)、観応の擾乱が起こった。氏政もそのなかで直義方の多い関東にあって尊氏に味方した。しかし、小山氏の勢力の衰えがこの時期に如実に現れる。多くの下野国の武士が小山氏ではなく、同じ下野の名族の宇都宮氏の当主宇都宮氏綱に従ったのである。こうして下野国守護職は宇都宮氏に引き継がれた。

小山氏の増長と断絶「小山義政の乱」
氏政は勢力の挽回に励んだが、所領は増えたが従う国人は減少するという状態が続き失意の中で死去した。その後を子の小山義政が家督を継ぎ、下野守護職になった。応安元年(1368年)、鎌倉府による新田義宗の討伐に参加するなど活動している。康暦2年(1380年)、義政は、下野国で小山氏と互角の勢力を築き対立していた宇都宮氏の宇都宮基綱と争い、鎌倉公方足利氏満から内戦中止の命令を受けたが、それに従わず河内郡裳原の戦いで基綱を討った。しかし、これは私闘とみなされ、関東地方の治安を任された鎌倉公方足利氏満はこれを放置するわけに行かず、小山氏追討を諸将に命じた。これが小山義政の乱の勃発である。この乱は、独立性の高い伝統的な豪族である小山氏が、氏政以降、所領を拡大して勢力を強めたことが、小山氏の増長を生み、東国に新秩序を構築し支配基盤を確立せんとしていた鎌倉府の方針を軽視することにつながった結果といえる。義政は鎌倉軍に対して徹底抗戦したが、永徳2年(1382年)櫃沢城を落とされた義政は自害して果てた。義政の死後、子の若犬丸(小山隆政)がしばらく抵抗したものの敗れ消息不明となり、隆政の子も芦名氏により捕らえられ鎌倉に留送中に三浦の海に沈められ、平安時代以来の下野国に君臨してきた小山氏宗家は断絶した。

小山氏の復興
鎌倉公方足利氏満は小山氏を滅ぼしたものの、小山氏の名跡が絶たれることを惜しみ、小山氏と同族の結城基光の子、泰朝をいれて小山氏を継がせた。この時期、小山氏は鎌倉時代以来続いた名門としての権威は失われ、小山氏は結城氏の影響の下で勢力の回復に努めざるをえなかった。小山泰朝の子の小山満泰は応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱に結城基光とともに鎌倉公方の持氏に味方して活躍し、応永29年(1422年)から翌年にかけての小栗満重討伐にも出陣している。この時期に「関東八屋形」という概念が生まれ、そのなかには小山氏も含まれた。

一代の英傑・小山持政と享徳の乱
小山泰朝の子の氏朝が結城満広の養子に迎えられるなど、小山氏と結城氏とは親密な関係にあったが、満泰の子の小山持政の代になると、小山氏は勢力を盛り返し、結城氏から離れて独自路線をとるようになり、室町幕府と鎌倉府が対立した永享9年(1437年)の永享の乱では足利持氏に味方した結城氏に敵対し、幕府方に味方した。永享の乱で持氏が敗死したが、結城氏朝が持氏の遺児兄弟を擁して永享12年(1440年)に結城城で幕府に対する兵を挙げた(結城合戦)。このとき結城氏が一族の惣領的な地位にいたため一族の多くは結城方として幕府軍と戦った。そのなかで小山氏の持政は幕府軍に味方して活躍した。結城合戦は幕府軍の勝利で結城氏は没落した。合戦後、持政は下野守に任ぜられるなど自立した。嘉吉元年(1441年)に義政以来、久方ぶりに下野守護に復帰し小山氏は宗家断絶後の復興を成し遂げたのである。鎌倉府が絶えると上杉氏の勢力が強大化した。それに対して多くの関東の諸将を持ち、室町幕府に鎌倉府の再興を願った。足利持氏の遺子の足利成氏が赦免されて鎌倉公方として下向した。しかし、新公方成氏と上杉氏がうまくいくはずはなく、享徳3年(1454年)、ついに成氏が側近に命じて関東管領の上杉憲忠を殺害し、関東地方は公方成氏派と管領上杉氏派に分かれて対立し享徳の乱と後に呼ばれる争乱が始まった。この乱では持政は一貫して公方成氏を支持して活動し、享徳4年(1455年)には管領上杉氏派の同国の宇都宮氏と戦っている。公方成氏の信頼を得た持政は目覚しい活躍を見せた。成氏にとって持政は偉大な後見人となっていく。しかし、形勢は幕府が積極的に介入してきたことで、成氏は鎌倉を維持できなくなり、成氏は持政を頼って持政の勢力の強い古河に本拠地を移した。そのため成氏は古河公方と呼ばれるようになる。成氏は、小山氏、結城氏らの支援を得て関東管領上杉方と対峙した。幕府も長禄元年(1457年)に成氏にかえて鎌倉公方として、将軍足利義政の弟の足利政知を関東へ下向させた。しかし、成氏を支持する小山氏、結城氏らの勢力を恐れて鎌倉へは入らず、伊豆国の堀越にとどまった。その結果、成氏は古河公方、政知は堀越公方となった。それらの現状は、上杉氏の勢力と小山氏、結城氏の勢力が均衡を保っていた結果であった。強大な上杉氏に対抗するだけの勢力を有するまでに小山氏をしたのは持政の手腕であった。享徳の乱の間に嫡子の氏郷と嫡孫の虎犬丸を病気で失ったために、持政が老齢にもかかわらず小山氏の当主として成氏を助けて、各地を転戦して上杉方の軍勢との合戦を続けた。長享4年(1460年)、寛正5年(1464年)、文正元年(1466年)と将軍義政から再三にわたって帰順の命令がきた。それでも持政は頑として拒絶し、成氏の支持を続けた。文明3年(1471年)に4度目の帰順の命令が持政にきた。多くの将兵が傷つき、子や孫を失った持政の強靭な精神も一族、重臣の離反の危機などをうけて、ついに持政は幕府の命令に応じた。その後の持政の動向は不明だが、この年の内になくなったものと思われる。事実上、ここの小山氏は絶えた。その後も、名目上の当主は存在したようだが語るべき存在ではなく、歴史の底辺に沈んでいった。持政は最後の小山氏の惣領たる堂々たる武将であった。

一代の英傑、小山持政の後、またも小山氏は嫡流が絶えることとなった。そのため、一族の有力庶家の山川氏から養子のかたちで家名を存続させた。その養子が小山成長である。偉大な英傑の死によって後ろ盾を失った古河公方の足利成氏は文明10年(1478年)に関東管領の上杉氏と和睦し、その後、文明14年(1482年)には幕府とも和睦した。このことによっておおよそ30年間も続いた享徳の乱は一応の終焉を迎えた。しかし、それは新たなる争乱までの僅かな休息に過ぎなかった。

長享の乱、古河公方の内紛と小山氏
長享元年(1487年)、今度は古河公方を押さえ込み、さらに強大になった上杉氏にほころびが見え始めた。それは上杉一族内部での主導権争いであった。山内上杉氏と扇谷上杉氏という上杉氏内部の有力家が対立し、両家の当主である(山内)上杉顕定と(扇谷)上杉定正との間で争いが生じ、関東はまたもや騒乱の嵐に巻き込まれた。古河公方足利成氏の後を継いだ古河公方足利政氏は当初は扇谷上杉定正を支持した。しかし、その上杉定正が死去すると、姿勢を変えて上杉顕定を支持するようになった。だが、今度は永正3年(1506年)になると古河公方家のなかでも足利政氏とその嫡男の足利高基との父子間でも対立が生じた。父子の対立の原因は、古河公方家の権威と勢力の回復策に対する方針の相違であった。足利政氏は山内上杉氏と提携しながらそれを実現しようとし、足利高基は急速な勢力拡大を推進している北条氏の力を利用することに活路を見出そうと考えた。それらの動きの中で小山氏は、持政が死の寸前に足利成氏から離反したとはいえ、成長が家督を継ぐと、方向転換して古河公方家と再び親密な関係を持つようになった。上杉氏同士の対立では目立った行動はなかったが、公方家の内紛が開始されると、成長は政氏に味方して活動し、政氏方の中心勢力となった。永正9年(1512年)、勢力を失い古河城を退去した政氏を小山祇園城に迎えるなど、政氏支援を継続した。永正11年(1514年)、政氏の命を受けた成長は佐竹義舜・岩城由隆らとともに、宇都宮氏の宇都宮城や古河城を攻撃したが、宇都宮氏に援軍として名将の結城政朝が出陣したために、小山・佐竹・岩城軍はもろくも撃退されてしまう。これを契機に政氏方は次第に劣勢になり、足利高基は古河城に復帰して政氏に代わる事実上の古河公方として活動する。永正13年(1516年)、小山氏も政氏の支援をやめて高基に味方するようになる。この背景には成長の子、政長の影響力が見え隠れしている。その政長が父の成長に代わって小山氏の実権を掌握し事実上の小山氏の指導者となる。その結果、政氏は小山氏の離反によって祇園城から追放され、足利高基が古河公方として認知されるにいたる。その政長の活動期間はさほどは長くはなく、男子を残さずに若年のうちに死去してしまった。そのため、一族で名将の誉れの高い結城政朝の子、結城高朝(小山高朝)を養子に迎えた。

結城氏・小山氏連合と小山高朝
結城氏から養子として小山氏に入り、家督を継いだ小山高朝は実父の結城政朝の血を受け継いで、武勇に優れ政戦両略の才ありと称せられた武将で、敵対する勢力には軍事力を用い、友好関係の勢力には外交を用いて、周辺の勢力から奪われていた旧小山氏領を取り戻していった。高朝は実の兄である結城政勝と小山・結城氏連合を形成して、周辺の有力な敵対する大名である宇都宮氏・小田氏・佐竹氏らに対抗しようとした。政勝には明朝という男子があったが、幼くして死去したため、高朝の三男の小山晴朝(結城晴朝)を政勝の養嗣子として迎えて結城氏の家督を譲ることに決めた。それによって連合の結束力はさらに強化されることとなった。小山氏を北方から虎視眈々と狙う宇都宮氏に対抗すべく、結城・小山連合は宇都宮氏の勢力の北東にあって宇都宮氏と対立する那須氏と連携を深めていった。それに対抗して宇都宮氏は那須氏の南東、結城・小山連合の北東に位置する佐竹氏、小田氏と連携する様相になり、下野国・常陸国などの北東関東地方では、結城・小山・那須連合と宇都宮・佐竹・小田連合が互いに牽制しあう状況になった。

北条氏の台頭と結城・小山連合の解体
天文14年(1545年)10月、河越夜戦が起こる。古河公方足利晴氏と扇谷・山内両上杉氏らは連合して北条氏康の関東侵略を阻止しようと、北条氏康軍と河越で衝突した。しかし、結果は北条氏康の大勝利に終わった。北条氏康は、武蔵北部から下野・下総・常陸に及ぶ広大な範囲へ勢力を伸ばそうとし、敗戦した古河公方足利晴氏は北条氏の影響下に入らざるを得なかった。 天文21年(1552年)、北条氏康は古河公方足利晴氏を押し込めて、自分の娘と晴氏の間にできた子である足利義氏に家督を譲らせた。古河公方押し込めによる交代は結城政勝・小山高朝兄弟をはじめ、関東の諸将に衝撃と動揺、そして困惑を与えた。義氏が古河公方になったことで、北条氏康は関東管領のように振舞うことになり、今までは北条氏に対して関心のなかった北関東の諸将たちも北条氏に対する対応を考えざるを得なくなった。

北条氏の台頭によって関東地方には大きな転換期が訪れた。それへの対応をめぐって小山・結城両氏の連合に歪みが現れる。また、小山氏の内部でも高朝とその子の秀綱との間に意見のずれが生まれた。高朝・秀綱父子は、足利晴氏と緊密な関係を結んでいた。そこへ義氏が古河公方に着任したことで、問題が起こった。それは、これから足利晴氏、足利義氏の父子のどちらを支持するからということであった。高朝は晴氏を支持する立場を堅持するとし、秀綱は義氏を新たに支持する立場への転換を明確にした。高朝・秀綱父子は意見が対立したが、小山氏の分裂することはなかった。しかし、結城氏は義氏を支持することを明確にしたため、結城政勝と小山高朝との間には進む方向に亀裂が生じ、結城・小山連合はここに解体することとなった。

上杉謙信の登場と小山氏
永禄3年(1560年)の長尾景虎(後の上杉謙信)の関東出兵によって、関東地方の様相は激変する。関東管領上杉憲政を奉じて関東に出陣してきた長尾景虎は、上野国国内の北条方の諸城を鎧袖一触に粉砕すると、永禄4年(1561年)には、関東全域に檄をとばし、北条討伐の軍を起こす。その檄に応じて参集してきた関東の諸将を率いて北条氏の本拠地である小田原城に進み、これを包囲するなどした。そして、上杉憲政から上杉の苗字と関東管領職を譲られ、長尾景虎を改めて上杉政虎(その後輝虎、謙信と改名)と名乗った。小山氏ではこれに対応して、反北条であった高朝の主導のもと、上杉軍に参加し、足利晴氏の嫡子の足利藤氏の公方就任にともない、上杉謙信・足利藤氏の関東支配に参加した。上杉謙信の関東出兵によって関東には足利藤氏・上杉謙信という支配体制と、足利義氏・北条氏康という支配体制が並存するようになる。結果、小山氏もそれらの対立に巻き込まれる。高朝の三男で、秀綱の弟で結城氏を継いだ結城晴朝は結城氏の方針である足利義氏・北条氏康体制支持を明確にし、小山高朝、秀綱路線と対立することになる。

上杉氏と北条氏の対立の中で、小山氏は翻弄されていく。上杉謙信が関東に進出してくると、上杉氏に従い、上杉謙信が越後に帰国すると、北条氏の攻勢に怯え屈服するという状況が続いた。このころの小山氏は平安時代以来の名門の力も、鎌倉時代の武門の誇りも失われていた。当主秀綱も明確な方向性を見出せない状況が続き、家臣団も北条派と上杉派に分かれるなど、小山氏の惣領制度、支配体制にも大きな問題が生じていた。

北条氏の強大化と反北条連合の結成
天敵と思われていた北条氏と上杉氏が越相同盟を締結し同盟したことは関東の諸将には安堵と不安を与えた。去就を迷い、近隣の諸将同士の戦いが減るであろうことに安堵した。しかし、越相同盟によって上杉氏の影響を考えなくてよくなった北条氏は、これまでのような古河公方足利義氏を利用しながらの統制から自己の武力による版図拡大路線へ政策を転換した。この北条氏の政策の転換は秀綱や結城晴朝・那須資晴らの北条氏を支持してきた諸将ですら、敵対してきた佐竹義重・宇都宮広綱らと反北条という統一見解に至り、北条氏の北進策に徹底抗戦していった。

下野小山氏の終焉とその後
しかし、強大な武力によって北条氏は着実に勢力を拡大。下総の古河・関宿などの諸城は北条氏の攻勢の前に陥落。その支配するところとなり、ついに北条氏は小山氏領に進攻。天正3年(1575年)、北条氏の攻撃によって居城の祇園城は陥落。秀綱は佐竹義重を頼り逃亡、ここに400年続いた関東の名門、小山氏は滅亡した。

その後、北条氏は北条氏照を祇園城代に任じ、秀綱もその一配下となることで小山復帰が認められる。だが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏は滅亡して、小山氏の旧領は結城晴朝に与えられる。ここに至って秀綱は晴朝に従う事になった。秀綱は小山氏の再興を運動したものの果たせず、小山政種、小山秀広ら息子達に先立たれ失意のうちに病死した。小山氏の家督は秀綱の後は孫の小山秀恒が継ぎ、後に秀恒の子の小山秀堅が寛文年間に水戸藩士として取り立てられ存続し、現在に至っている。

年表
和暦 西暦 事柄
治承4年 1180年 源頼朝の反平家の挙兵に小山朝光(後の結城朝光)が参加。
寿永2年 1183年 常陸国の志太義広の乱を鎮圧する。
文治5年 1189年 奥州藤原氏に対する奥州征伐(奥州合戦)に小山氏の兄弟は参陣し武功をあげた。
正治元年 1199年 播磨守護職に任じられる。
元弘3年 1333年 新田義貞の討幕の挙兵に参加、義貞に従って鎌倉攻撃に参加。
元弘3年 1333年 建武の新政の結果、秀朝は下野国守護職と下野国国司を兼任する。
建武2年 1335年 北条時行の中先代の乱が起きる.
建武2年 1335年 秀朝は足利直義の命令で武蔵国に出陣し北条時行軍と戦って敗れ自害。
建武4年 1337年 小山城は北畠顕家の率いる奥州の大軍の攻撃を受けて陥落。朝郷は捕虜に。
観応2年 1351年 観応の擾乱が起る。氏政は直義方の多い関東にあって尊氏に味方した。
応安元年 1368年 鎌倉府による新田義宗の討伐に参加。
康暦2年 1380年 義政は鎌倉公方足利氏満の停戦命令を拒否し宇都宮基綱を討つ。小山義政の乱。
永徳2年 1382年 義政は櫃沢城を落とされ自害して果てた。小山氏宗家は断絶。
応永23年 1416年 満泰、上杉禅秀の乱に結城基光とともに鎌倉公方の持氏に味方して活躍
応永29年 1422年 小栗満重討伐にも出陣。
永享9年 1437年 永享の乱では持政は幕府方に味方し勝利する。
永享12年 1440年 結城合戦では持政は幕府軍に味方して活躍した。
嘉吉元年 1441年 持政が義政以来、久方ぶりに下野守護に復帰。
享徳3年 1454年 享徳の大乱が始まる。
享徳4年 1455年 持政、管領上杉氏派の宇都宮氏と戦う。
長禄元年 1457年 幕府、成氏にかえて鎌倉公方として、将軍義政の弟の政知を関東へ下向させる。
長享4年 1460年 持政に将軍義政から帰順の命令がくるが拒絶。
寛正5年 1464年 持政に将軍義政から帰順の命令がくるが拒絶。
文正元年 1466年 持政に将軍義政から帰順の命令がくるが拒絶。
文明3年 1471年 持政に4度目の帰順の命令がくる。ついに持政は幕府の命令に応じる。
文明10年 1478年 古河公方の足利成氏は関東管領の上杉氏と和睦する。
文明14年 1482年 幕府とも和睦し、約30年間も続いた享徳の乱は一応の終焉を迎える。
長享元年 1487年 長享の乱。(山内)上杉顕定と(扇谷)上杉定正との間で争いが生じる。
永正3年 1506年 古河公方家で足利政氏と子の足利高基の父子が対立。小山成長は政氏に味方。
永正9年 1512年 勢力を失い古河城を退去した政氏を小山祇園城に迎え、政氏支援を継続した。
永正11年 1514年 政氏の命を受け小山成長は佐竹義舜・岩城由隆と、宇都宮城や古河城を攻撃。
永正11年 1514年 小山成長宇都宮氏の援軍の結城政朝に小山・佐竹・岩城軍は撃退される。
永正13年 1516年 小山政長も政氏の支援をやめて高基に味方するようになる。
天文14年 1545年 河越合戦が起こる。
天文21年 1552年 北条氏康は古河公方足利晴氏を押し込め義氏に家督を譲らせた。
永禄3年 1560年 長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に出兵
永禄4年 1561年 長尾景虎、関東全域に檄をとばし、北条討伐の軍を起こす。高朝が参加。
天正3年 1575年 北条氏の攻撃によって居城の祇園城は陥落。小山氏滅亡。
慶長8年 1603年 小山秀綱病死。息子はこれに先立って病没しており、小山氏宗家の家系は断絶する。

歴代当主
小山政光
小山朝政
小山朝長
小山長村
小山時長
小山宗長
小山貞朝
小山秀朝
小山朝郷
小山氏政
小山義政
小山泰朝
小山満泰
小山持政
小山成長
小山政長
小山高朝
小山秀綱
小山政種
小山秀広

系譜
凡例 太線は実子、二重線は養子。細線は夫婦。太字は当主。
藤原秀郷
  ┃
 千常
  ┃
 文脩 
  ┃
 兼光
  ┣━━━┓
 頼行 大田行則
  ┣━━━━┓
太田宗行 淵名兼行
  ┣━━┳━━┳━━━┓
 行政 行光 関政家 関政員
  ┣━━━━┓
小山政光 下河辺行義
  ┣━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┳━━━━┓
 朝政 長沼宗政 久下重光 島田政照 吉見朝信 結城朝光(下総結城氏)
  ┣━━┓                    ┃
 朝長 朝村                   朝広
  ┣━━━┓                   ┃
 長村 下妻政長                 広綱
  ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━━┓       ┃
 時長 時朝 宗光 秀長 長綱 薬師寺政村    時広
  ┃                       ┃
 宗長                      貞広
  ┣━━┳━━━┳━━━┓            ┣━━┓
 貞朝 貞光 岡本親元 宗政           朝祐 直光
  ┣━━┓                    ?
 秀朝 政勝                   直光
  ┣━━┳━━━┳━━━┓            ┣━━━┓
 朝氏 氏政 富岡秀高 大沢秀忠         満広 小山泰朝
  ?                       ?
 氏政                      氏朝
  ┃                       ┣━━┳━━┓
 義政                      持朝 成朝 長朝
  ?━━┓                    ?     ┃
 泰朝 隆政                   成朝    氏広
  ┣━━┳━━━┳━━━━┓           ?
 満泰 広朝 結城氏朝 山川氏義         氏広          
  ┃           ┣━━━┓       ┃
 持政          景貞  景胤      政朝     
  ?━━┓        ┃   ┃       ┣━━┳━━━┓
 成長 氏郷       基景 小山成長     政直 政勝 小山高朝
  ┃                       ?
 政長                      政勝
  ?                       ?
 高朝                      晴朝
  ┣━━━┳━━━━┓              ?
 秀綱 富岡秀高 結城晴朝            秀康
  ┣━━━┳━━━┓               ┃
 政種 榎本高綱 秀広           結城直基(松平直基)
  ?━━━━━━━━━┓
 秀広        周琳                     
  ┃         ┣━━━┓
 秀恒        周永 平野秀元
  ┣━━┳━━┓   ┣━━━┳━━━━┓
 秀泰 秀勝 秀政  周慶 矢島政元 平野秀条
            ┣━━━┳━━━━┓
           周芳 平野秀経 平野秀興
            ┃
           周安 
            ┃
           周英

2009年01月20日

ギュアスケート(英語:figure skating)

フィギュアスケート(英語:figure skating)は、スケートリンクの上でステップやスピン、ジャンプなどの技を組み合わせ、音楽に乗せて滑走する競技。名称はリンクの上に図形(フィギュア)を描くように滑ることに由来する。シングルスケーティング、ペアスケーティング、アイスダンスは冬季オリンピック正式競技。また、シンクロナイズドスケーティングも行われている。

スケートの起源
原初についてははっきりしないが、すでに先史時代には北欧で動物の骨をブレードにしたスケート靴が用いられていた。それが南下してオランダに伝わり、運河の発達により国民各層で行われるようになった。
フィギュアスケートの始まり
農民たちは凍った運河の上で目的地にできるだけ早く到着するスケートに熱心であったが、貴族たちの間では優雅さやマナーを重んじた芸術的スケートが好まれた。彼らの滑走様式はオランダ人の弧線滑走という意味の「ダッチロール」と呼ばれるようになり、フィギュアスケートの原型となった。これが、やがてスコットランドに伝わり愛好家らにより図形を描いて滑走する技術が研究されるようになった。一方でフランスやドイツにおいては芸術的な滑走動作が研究された。

その後、1742年にイギリスのエディンバラで世界初のスケーティングクラブが発足して以降、各国においてスケーティングクラブが設立され、その国独自の形態でフィギュアスケート競技会も行われるようになった。初めはヨーロッパ全域で盛んになり、1882年にはウィーンでフィギュアスケート最初の国際大会が開催された。1892年には、スケート競技を国際的に統轄する国際スケート連盟が創立され、1896年から世界選手権が開催されるようになった。だたしこのときは男子シングルのみであり、女子シングルは1906年、ペアは1908年にそれぞれ別個に世界選手権に相当する大会が開かれるようになった。アイスダンスは1952年になって初めて世界選手権の種目として加わった。
オリンピックでは、1908年の夏季オリンピックで初めて実施された。夏季オリンピックではこの大会と1920年の大会のみで行われており、1924年にシャモニーオリンピックが開催されてからは毎回冬季オリンピックで実施されている。
スケート靴
フィギュアスケートには専用のスケート靴をはく。男性は黒、女性は白やベージュの靴をはくことが多い。スケート靴は革もしくはプラスチック製の靴の部分とブレードと呼ばれるややカーブした金属部分からなり、重さは約2kg ある。ブレードが氷に直接接する部分をエッジと呼ぶ。エッジの厚さは3-4mm 程度で、中央には溝が入っている。
フィギュアスケート用のブレードは先がギザギザになっているのが特徴で、このギザギザの部分をトウピック(トウ)といい、ジャンプやスピンのときなどに使われる。トウの部分が小さくかかとの部分が短いアイスダンス用のブレードもある。シングルのコンパルソリーではトウの小さいブレードやトウのないブレードが用いられた。
スケートリンク
フィギュアスケートのスケートリンクは60m × 30 m のサイズが国際規格となっている。競技会では屋内リンクを使うのが一般的であるが、屋外リンクで五輪のフィギュアスケート競技が行われたケースもある。競技の前後や合間には氷の表面を滑らかに保つため、整氷車や手作業による整氷が行なわれる。

競技会

フィギュアスケートの競技会にはアマチュア資格をもつ選手が出場できる。なお、フィギュアスケートを目にすることのできる場としては、競技会とは別に、アイスショーもある。

競技の技術的要素
アビランド ケイソ グズア 月の宿 トラム 太鼓判 バロイ ガリウム ジョーカー スーパー プチブ ダムウェ フット チルドレン シーズン ポインセ キッチン メンチ ナラティブ 河童大王 アービト キャリア カララー ダブルシン ガッツ カフス ビジョン デバイ マスゲ シェード ナル 華麗 プロジェト スタート スタンド ハノー リアリ スヌーピ アオザイ フォトメ ビンバ シネコン スローガン ライン センナ ハイマツ アコード フォカマイ スコア ケブキ

男子および女子シングルでは、ジャンプ、スピン、ステップシークエンス、スパイラルなどが競技の技術的な構成要素となる。ペアではさらにスロージャンプ、リフト、ツイストリフトが加わる。アイスダンスではジャンプやリフトなどに制限がある一方、ステップシークエンスにより重点がおかれる。要素ごとにさまざまな種類があり、その難易度に応じて配点も定められている。

フィギュアスケートは、基本的に片足で、インサイドかアウトサイドどちらかのエッジに乗って滑走する。

氷についているほうの足はスケーティング・レッグ(滑り足)、ついていないほうの足はフリー・レッグ(浮き足)と呼ばれる。右足をスケーティング・レッグとしたとき(右足片方だけで滑るとき)、氷の表面に対してスケート靴のエッジを、

まっすぐに立てる(フラットに乗る)と、直進する。
内側に傾ける(インサイドに乗る)と、左に曲がる。
外側に傾ける(アウトサイドに乗る)と、右に曲がる。
滑走には前方(フォワード)と後方(バックワード)の2つの方向があり、また右足(ライト)と左足(レフト)それぞれで滑るので、次の8つのパターンがあることになる。

ライト・フォワード・インサイド(ライト・フォア・イン、RFI)
レフト・フォワード・インサイド(レフト・フォア・イン、LFI)
ライト・バックワード・インサイド(ライト・バック・イン、RBI)
レフト・バックワード・インサイド(レフト・バック・イン、LBI)
ライト・フォワード・アウトサイド(ライト・フォア・アウト、RFO)
レフト・フォワード・アウトサイド(レフト・フォア・アウト、LFO)
ライト・バックワード・アウトサイド(ライト・バック・アウト、RBO)
レフト・バックワード・アウトサイド(レフト・バック・アウト、LBO)
これらの組み合わせによって多様なステップとターンが生み出され、ステップとターンを連続して行うものがステップシークエンスである。